岡豊城

高知県南国市岡豊町八幡 なんこくしおこうちょう

南国市の岡豊城跡は、四国を平定した長宗我部氏の居城として知られる中世の城跡です。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐へ入国したと伝えられており、それ以後、長岡郡を中心に勢力を拡げ、戦後大名へと成長していきました。岡豊城の築城は発掘調査の結果、13〜14世紀ごろと考えられています。「土佐物語」によると16世紀の初頭に長宗我部元秀が土佐の豪族の連合軍に岡豊城を攻められ自刃して、落城したと伝えられている。 落城の際、嫡子の国親は、幡多中村の一条房家を頼って落ち延び、元服して、永正13年(1516)に一条房家の助力で本領を回復し、岡豊城に帰った国親は、以降近隣の豪族を討ち勢力を伸ばした。国親の子元親のとき四国全土に勢力を広げたが、豊臣秀吉の四国征伐に敗れた元親は、土佐一国を安堵され、天正16年(1588)に大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの約70年間にわたり居城として使われていたといわれています。岡豊山は、香長平野に突き出した丘陵てあり、標高97mの頂上部(詰)に立てば、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋も望むことかできます。南には国分川か流れ、自然の要害の地でありました。 城跡は、詰を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の二つの出城からなる連郭式の構造となっています。本城は、詰と堀切によりへだてられたニノ段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三ノ段、四ノ段からなり、虎口(城の中心となる出入□)は西部に造られています。

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