小高城

茨城県行方市小高

”平安時代末期、常陸大掾氏の一族、吉田忠幹が郡司として行方の地に入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。その子、景幹(一説宗幹)は源平の戦いにおいて源氏に与し、屋島の戦いで没した。1184年、その所領は景幹の四子に分与され、長子為幹は行方、二子高幹は島崎、三子家幹は麻生、四子幹政は玉造に進出した。彼等は、それぞれの地名を名字とする地頭として、「行方四頭」と呼ばれた。鎌倉時代初期、行方城主であった為幹はここ小高の地に居城を移し、小高氏を名乗った。その後裔は開発や社領侵略等により、次第にその勢力を拡大し、小高、南、橋門、井貝から、南高岡、中根、繁昌、吉川まで支配したこともある。戦国時代末期1591年、幾多の戦乱を生き延び、約400年にわたりこの地を支配し、十数代を数えた小高氏も、佐竹氏の「南方三十三館の仕置」により鹿島・行方地方の諸城館主とともに滅ぼされ、その終焉を迎えた。小高氏滅亡後、佐竹氏の一門が小高城将として配された。1602年、大山義則が城将の時、佐竹氏の秋田移封により廃城となった。”説明板から。国道355号線バス停橋門(八坂神社)から東に入っていった付近。

小高城

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