此隅山城 このすみやまじょう 兵庫県豊岡市出石町宮内 20031025

豊岡市の此隅山です。”山名氏は、室町幕府において侍所の長官に任ぜられる最も有力な大名の一人で、明徳の乱、応仁の乱の中心勢力として関与した。但馬は南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。この山名氏の本国但馬における本城が此隅山城である。標高140メートルの此隅山山頂に長さ50メートル、幅10メートルの主郭を設け、これを中心に四方にのびる尾根上に削平による平坦地(くるわ)を多数設けている。石垣などを用いない、中世の山城の様相をよく残している。文中年間(1372〜74)ころ山名師義により築城されたといわれている。山麓には宗鏡寺、願成寺、大手門、御屋敷などの地名が残り、かつて城下町が存在していたことを伝えている。また出石神社や総持寺にも山名に関する書状などが残っている。しかし永禄十二年(1569)と天正八年(1580)に天下統一をねらう木下秀吉らの織田軍が但馬に進攻し、此隅山城は廃城となった。”説明板から。標高140mの此隅山山頂に築き平坦地を多く設け、石垣などを用いない中世の山城の様相をよく残している”日本の6分の一を領有していた山名氏の本拠地

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