越水城 こしみず 兵庫県西宮市桜谷町9 さくらだに 20090101

西宮市の越水城です。目の前の小高い丘は観応二年(1351)足利尊氏と弟直義が戦った小清水の陣所跡で、瓦林正頼は永正十三年(1516)ここに越水城を築城しました。いまの町名では城山・桜谷・満池谷・清水の4町にまたがり、その広さは南北約200m・東西約100mで小清水城あるいは腰水城といわれていました。ここは西国街道の要衝で、城にかかせぬ水にも恵まれた築城の適地でした。 この城は、一説には天守閣もあり外城を備え、人々を住まわせた西宮には、城下町のような雰囲気があり「おおよそ目を驚かす風情」で、摂津では他に例がなかったようです。 応仁の乱に始まる戦国時代初期、城主正頼は細川氏の内紛に高国方につき、四国より京にのぼる澄元を迎えうって敗れ、その上澄元に内通したとして切腹、死後澄元の家臣三好氏が入城しました。天文二年(1533)には瓦林と一向一揆が三好を攻めて城を奪い返し、瓦林の一族が城を守りますが、さらに攻防が繰り返されて、ついに畿内の覇者三好長慶の居城となり、彼は家臣松永久秀を京に止めて越水城で指揮をとりました。永禄九年(1566)時の城主四国阿波の篠原長房は、瓦林三河守に攻められ、一旦開城しますが4日後に復活、9月には足利義親(のちの足利幕府14代将軍義栄)が入城しましたが、十一年に織田信長の入洛により、越水城の戦略的価値が消えました。それから三百三十年を経た明治二十九年(1896)12月、この城跡に大社尋常小学校の新校舎が建ち、中村地区から移転した3学級210名の児童が勉強を始めました。深い緑の木立につつまれた新しい学校は、大阪湾をへだてて摂津・河内・和泉や紀伊の山々を望む素晴らしい環境に恵まれた学校でした。しかし、時代と共に発展する大社村(昭和八年4月西宮市に合併)の小学校としては狭くなり、大正七年(1918)11月現在地に移りました。最早越水城は遠い思い出ですが、戦国の世以来こんこんと清水が湧き、城や地名のもととなった3ヶ所の泉こそ越水城を語り継ぐ証人として大切に保護したいものです。”説明板から。現在は大社小学校。

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